もう17年近く前のことになるが、私たち一家は夫の海外赴任にともなって、4年半カリフォルニア州で暮らした。
当時、ふたりの息子は5歳と3歳。そのとき5月だったので、9月の新学期までの2ヶ月、上の息子だけ、近くの教会付属のプレスクール(幼稚園)に入れてもらった。
そこでさっそく問題が起きたのである。
いつものように昼頃迎えに行くと、私は先生にこう言われた。「あなたの息子は、暴力的だ」と。
私はびっくりしてしまった。上の息子は外ではむしろおとなしく、決して他人に対して暴力をふるうような子ではない。
よく話を聞いてみると、こうだった。
「カラテのように、なぐったり蹴ったりする真似をして、まわりの子どもを脅かしている」と。
何のことはない、彼は大好きな戦隊ヒーローものの、アクションの真似をしていただけなのだった。
アメリカの伝統的社会では、子どもは大人の前で厳しくしつけられている。日本では、男の子が戦隊ヒーローや仮面ヒーローの真似をしても、ほほえましく見つめられるであろうが、アメリカではとんでもない躾不行き届きの子どもに見られてしまうのだ(あれから月日が経ち、日本のメディア文化もたくさんアメリカに輸出されているので、今では事情は変わったかもしれない)。
それと似たようなことは、9月になって、キンダーガーテン(小学校付属幼稚園)に入学してからも起き、私は口をすっぱくして、テレビヒーローの真似をしてはダメと教えなければならなかった。
しかし、子どもにしてみれば、まったく言葉の通じない現地の学校に放り込まれて、自分をアピールする手段を何も持っていないのだ。せめて、かっこいいヒーローのアクションを真似することで、消えていきそうな自分を主張したいと思っただけではないだろうか。
高橋京希さんのブログでも取り上げられていたが、
「正義のヒーローものゲームは、悪者が暴れまわるゲームよりも、子どもの攻撃性を高める可能性がある」ことが研究の結果わかったそうだ。
ゲームとテレビの違いはあるが、たしかにかっこいい正義のヒーローを子どもたちは真似したがる。しかし、それを見ている幼い子どもにとって、正義だ悪だという位置づけは意味がないと私は思う。かっこいいヒーローの格好や仕草を真似る。それは月光仮面のコスプレをして三輪車にまたがった昔の風景を持ち出すまでもなく、ことばの未発達な子どもにおいて、健全な自己主張、自己表現のひとつなのである。
やがて、子どもは「ことば」による自己表現を覚えていく。そしてそれが、身体による表現よりもはるかに重要で効果的だとわかれば、子どもはいつのまにかヒーローの真似をやめていく。現実と空想の世界の違いも、正義と悪ということばの意味も理解できるだろう。
問題は、「ことば」による自己表現を、家庭や学校で教えられないまま育ってしまう子どもである。親に話を聞いてもらえない、学校でも発言の機会を与えられない子どもたち。彼らがそのまま大人になって、暴力で自己を表現するしかないと考えたとき、私たちにはそれを止めるすべがないのだ。