「Yさんのしゃべりかたって、少し変」 通っていた大阪の小学校の4年生のクラスで、私はそう言われた。 6歳まで東京で暮らしていた。それまで自分が関西弁をしゃべっていないことに気づかなかった。 私はそれから、ほんのちょっぴりの疎外感を抱きながら学校生活を送るようになった。 ふたりの息子が5歳と3歳のとき、アメリカに赴任した。 上の子は現地の小学校のキンダークラス。弟は現地の幼稚園に通い始めた。 今から考えれば、いったい何故自分たちはおじいちゃんたちの家から飛行機に乗ってこんな遠くで暮らさなければならないのだろう、何故ボクたちのことばがみんなに通じないのだろうということは、よくわかっていない年齢だったと思う。先生の言うことが全く理解できなかった頃の、教室でのぼんやりした表情が忘れられない。 確かに幼い子だけあって、英語はめきめき身についた。ほどなく近所の子どもたちとも楽しそうに遊ぶようになった。 だがそうすると日本語の保持という別の問題が浮上してきた。 私たちが赴任した十数年前は、ちょうど帰国子女問題がクローズアップされたときだった。 ことばや仕草がヘンと言ってイジメられる。帰国後勉強がついていけない。 そう脅かされた私たち日本人の親はやっきになって子どもに国語や算数を押し付けた。 土曜日になると、日本語補習校に通わせる。日本のカリキュラムと同じ1週間分の勉強は、一日で教えられるはずもなく、ほとんどが宿題となる。膨大な量の漢字ドリル、日記、計算ドリル。 加えて現地校でも宿題は多い。学年が上がるにつれてその難易度は増し、例えば3年生でリンカーンについてのレポートやサイエンスの自由研究。 この大学生並みの英語の宿題は親の負担となってのしかかる。上級に上がると手に負えなくなって、家庭教師を雇う家もあった。 現地の学年で3年生と1年生で帰国になったが、もしあと1年いたら日米ダブル宿題にダウンしていたかもしれない。 そのあと住んだ千葉県の小学校で、「こんなにも日本の学校生活は楽なのか」と親子でしみじみ感じたことを思い出す。 今度は英語保持なるものが始まったが、のんびりしているうちに下の子は4ヶ月で英語を話せなくなっていた。 3年後ふたたびタイへの赴任。 そのとき息子は6年と5年。自分の意思で日本人学校へ通うことを選んだ。 そのためタイ語も英語も、ほとんど上達しないまま帰ってきた。 今高校生だが、2度と外国には住みたくないという超「国粋主義」者となってしまっている。 彼らが帰国子女としてどのような辛い目に会ったのか、または会わなかったのか私にはわからない。 ただ、きっと私が幼いころ感じた疎外感の二千倍もの重圧を感じていたにちがいないことだけはわかる。 今では帰国子女の存在が社会に認知され、高校・大学の受験にも特別の配慮がなされるようになったので、昔のように親はやきもきする必要はなくなったはずだ。 しかし今度は逆に、外国語力や自己主張、溌剌とした明るさを当然のように求められる風潮が別の意味で彼らを悩ませているのも確かだ。 親の都合で辛い思いをさせてしまったのではないかという後悔がよぎる。多分、海外駐在家庭のみならず、転勤族すべてに当てはまる心情だろう。 だがこうも思う。 教室で先生と友人のことばが聞き取れず、黙って何とかわかろうと試みていたあのとき。 異国の町でタクシー相手に行き先を伝えようとしていたあのとき。 自分と自分の環境に対する底知れぬ絶望とのあの戦いは決して無駄にはならないと。 語学力でもなく、見てくれの自発性でもない。 それが帰国子女の真価なのだと思いたい。 |