少しややこしい話なので、我慢してほしい。 バンコクにいるとき、私にはA子という親しい友人がいた。 しかし、彼女はある日突然、私たちから離れていってしまった。彼女がB江という人との人間 関係のあつれきに悩んでいたことを知っていたので、B江が原因であると思った。 私は憤慨した。義憤というヤツだ。 B江に対して冷ややかな思いを抱いた。別の友人とB江について語るときは、一応クリス チャンらしく、やんわりと批判した(神の前には、口汚い罵りも、やんわりした批判も区別は ないのだが)。 私の日本への帰国の2日前というとき、A子と最後の食事をした。 その席で、A子は私がフリーズするような打ち明け話をしてくれた。 彼女が私たちから去っていったのは、B江が原因なのではなく、実は私の一番親しい友だち C美が原因だったことを。 私は混乱した。悔恨にことばを失った。 なんで、なんで。あと2日でこの国を離れなければならない、こんなときに。 私とC美の仲をおもんばかって、A子が今まで言い出せなかったのであろうことは理解できた。 でも、もうB江と仲直りすることも、償うこともできない。 私のできた精一杯のことは、バンコクの空港で「ごめんなさい」というB江宛のはがきを投函 することだけだった。 人間はすべてのことを知っているわけではない。だから、性急に人を非難してはならない。 人間はいつも正しい判断をするわけではない。だから、自分の正義で人を断罪してはならない。 頭ではわかっているこんな簡単なことを、なんと愚かに私は繰り返すのか。 先日、久しぶりにB江が日本に来て、私たちは再会を果たした。 彼女はバンコクにいたときの私の過ちを赦し、これからも会おうねと約束してくれた。 人は、自分が赦されなければならない者であると知ったとき、正義をふりかざすことはもう できない。 聖書には、小説の題名にもなった『復讐するは我にあり』という、有名なことばがある。 自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてある からです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 (ローマ12:19) 同時多発テロへのアメリカによる報復攻撃が、他国へも拡大しようとしている。 彼らがこの聖書のことばを思い出し、果てしない復讐劇に自ら幕を引いてくれるよう祈りたい。 |