聖書を読んだことのない人でもかならず知っていることばのひとつが、「右の頬を打たれた ら…」ということばだろう。 マタイ5章の「山上の説教」にある、イエスの教えだ。 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 (マタイ5章38~41節) 正直言って、これを読むと、苦笑をもらす人がいるかもしれない。 あまりに非現実的だ。 もしこれを実践するお人よしな人が今の時代にいたら、その人は身ぐるみはがされてボロ ボロになってしまうだろう。 私たちはそばで見ていて、その人に怒りさえ覚えるかもしれない。 なぜ悪に手向かってはいけないのか。そんな無抵抗主義が悪を助長するのだ、と。 しかし、ここでのイエスの真意は、すこし違うとおもう。 相手は、なぜ左の頬をぶったのだろう。 なぜ下着をとるのだ。なぜ1ミリオン(英語では1マイル)行けと強いるのだ? 難癖つけてくる敵の心の奥底にあるものを、少し想像力を働かせて考えてごらん、とイエスは 言っているように思える。 愛とは想像力だ。 相手が本当は何を求めているのか、言葉の裏にあるものを想像することができたら、実は 乱暴なことばの影に、とんでもなく愛に飢えた心が隠れていたりする。 だから、ときに私たちはこう答えるべきなのだ。 「私といっしょに行こうよ。ふたりなら、2マイルだって楽しいよ」、と。 しかし、人と2マイル行くことは、難しい。自分では良かれと思ってしてあげたつもりでも、とき には見当はずれの「でしゃばり」にすりかわることがある。 想像力には長い訓練が必要なのだ。 残念ながら、私にはこのことに関してお話できるような体験談はまったくない。 本当に、失敗ばかりしている。「でしゃばり」と「無関心」の両極端に、ふりこのように揺れ ている。 だが私の母は、本当に私にとっては2マイル行ってくれる人だった。 「なんで、何にも言ってないのに、これが欲しいってわかったの?」 そう驚いて聞くことが、子どもの頃からしょっちゅうだった。 答えはいつも、「顔に書いてあったよ」。 愛情をもって見ていてくれるから、口にださない心の欲求がわかる。 今、自分が母親になってみて、その愛情の深さを知る。 まだ私には神による訓練が必要だ。母のあの愛の裏技を磨きたいと思っている。 |