教会のバーベキューパーティで、女性たちで寸劇を披露した。 私の行っている教会には、なぜか私をふくめて部活やアマチュアでの演劇経験者がけっこういる。 今回こうした有志が集まって演じたのは、「放蕩息子(ほうとうむすこ)」。聖書をちょっとかじった人なら誰でも知っている、有名なお話である。 簡単にストーリーを説明すれば、父からもらった財産を湯水のように使い果たしてしまった弟息子が、我に返り、父の元に戻ってゆく。父も彼を心から迎えるという話である。 さて、この劇の準備中に不思議なことが起こった。 出演者のあいだで、ひとつの役が取り合いになったのである。 それは、主役の放蕩息子でもなく、父親役でもなく、ましてや、しゃべる豚の役でもない。 彼らが演じたがったのは、兄息子の役だった。 兄息子はこの劇では、完全な脇役だ。 長年、長男として父のもとで黙々と仕えてきたが、ある日父親のもとに戻ってきた弟息子を歓迎する祝宴が行われているのを見たとき、彼のなかで何かが壊れた。 『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度も ありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことが ありません。 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来た子の ためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 (ルカ15:29、30) この役を欲しがった人たちは、長女であり、長男の嫁であった。 いつも周囲の期待にそむかず、いろいろな責任を負うことをまるで当然とされ、それに対してまわりから何の感謝のことばももらえない人たち。 彼らにとって、したい放題をして帰ってきた弟息子が、まるで親の愛情をひとりじめしているかの姿を見たときの兄息子の悔しさ、怒りは他人事ではなかったのだ。 それはあたかも、お土産をたくさん持ってたまに実家に帰って来た妹・弟一家が、親から「ありがとう」のことばをいっぱいに浴びているのを目の端にしながら、黙って台所で皿洗いをしている長男の嫁の心境を連想させるものだったのだろう。 感謝されるために何かをしているわけではない。 でも、どんな身近にいても、「いつもありがとう。おまえのことを愛しているよ」と父に言ってほしかった兄息子の心は、黙々と自分のすべきことをしている世の中の多くの人たちにとって、共通の飢えではないだろうか。 さて、聖書の中で、この兄息子に対して、父親はどう答えているだろうか。 『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 だが弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかった のだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』 (ルカ15:31、32) ここで、兄息子は大きな考え違いをしていたのだ。子山羊や子牛一匹どころではない、父の莫大な財産はもうすでに、彼のものだったのだ。 父の大きな愛情は、それまで彼ひとりのものだった。 それに気づかずに、弟息子と同様に、心の飢えの中にいた兄息子は、弟息子以上に父から遠く離れていたのだろう。 この「放蕩息子」の話は実は、兄息子が父のもとへ帰還する話でもあったのだ。 「愛しているよ」ということばを求める前に、今自分がどれだけ、ことばのない大きな愛に包まれて生活しているのか、立ち止まって考えてみることも必要だと思った。 最後に余談になるが、教会の寸劇で、この兄息子の役を見事ぶんどった人。 それは、私である。 |