今日、教会ですごく感動したお話を聞いたので、勢いでこの欄でご紹介したい。 うちの教会の牧師夫人の説教であった。 十数年前、彼女は神学校で牧師になるための3年間の学びをした。その神学校というのは、田舎の1万坪を越える広大な土地にいくつかの棟が点在して建っている。敷地には林もあれば池も畑もある。 それらの手入れは、すべて学生たちにまかされた。 最上級生の中から順番にリーダーが立ち、神学生たちに家屋の掃除や畑仕事の当番を割り振ることになっている。 彼女は本館外のトイレ掃除を命じられた。 屋外に建つ田舎式の便所(便所と呼ぶのがふさわしい)は当然ながら、今はめずらしい汲み取り式。虫がうごめき、臭く汚い場所だった。 一週間すると、通常なら分担が順繰りに変わることになっていた。 他の神学生は別の場所を割り当てられた。しかし、リーダーは彼女だけに、また同じトイレ掃除を命じた。 その次の週も。そのまた次の週も。 さすがに、彼女は割り切れなさを感じたという。しかし、黙って指示にしたがった。 毎日毎日、3つある便器を丁寧に雑巾でぬぐう。払ってもすぐに張る蜘蛛の巣を払い続ける。 やがて、ある日彼女は気づいた。 この汚く暗く臭い便所は、私の心そのものである、と。神はそんな私の心の罪を赦し、私を愛してくださっているのだ、と。 それに気づいたときから、彼女は賛美歌を歌いながら喜んで便所掃除をするようになった。 そして不思議なことに、それからまもなくリーダーは彼女に別の場所を掃除するように言い渡したという。リーダーは理不尽な命令を出すことによって、彼女の心の変化を期待していたのだろうか。 私は牧師夫人のこの話を聞いて思った。 もし私が彼女の立場なら、その不公平さに怒り、すぐに抗議して割り当て場所を変えてもらうだろう。 そして、彼女が気づいた一番大切な真理には、気づかずに終わってしまっただろう。 社会の不公平さ、理不尽さに怒り、それを改めようと行動することは多くの場合必要なことだ。 だが、それは自分の内面を見つめ直すための、神が与えた貴重なチャンスかもしれない。 この世で起こる理不尽な出来事には、私にとって何かの意味があるかもしれない。 私もときどき、神の理不尽さに怒る経験をしてきた。 聖書を読み神を求めながら、命を自ら絶ってしまった身近な人。病と何年も闘ったすえ、若くして天に召されてしまった友。 なぜなのか。なぜ彼らにこんな理不尽な運命が訪れたのか。神の正義はどこにあるのか。 今でも理由はわからない。もしかして天国に行くまでわからないかもしれない。 でも、すべてのできごとに意味があり、理由があると信じたい。 最悪の事態が訪れても、いつでも理由を問いかけ、自分をさぐる心を持ち続けたい。 今はできなくても。 「汝、いま知らず。のち悟るべし」 (ヨハネ13章7節 文語訳) |