今から10余年前、日本はバブル景気の真っ只中にあった。 カリフォルニアにも大勢の日本人駐在員が押し寄せていた。特に、私の住んでいたロサンゼルス郊外のトーランスというところは治安も良く、日本の大手自動車会社が2つもあり、日本人の好んで住む地域だった。 アメリカに住む駐在員家庭の9割強が、子どもたちを現地校に送っている。我が家も例外ではなく、5歳と3歳の息子は4年間地元の幼稚園と小学校に通った。 地域によっては、小学校全体で50人もの日本人児童を受け入れていた学校もあった。 よくぞ外国人の子どもをそこまで、とアメリカの懐の深さには脱帽せざるを得ない。 カリフォルニアの法律では、同学年に10人以上、同一外国語を母国語とする児童がいる場合、必ずバイリンガルクラスを作って、バイリンガルの教師を担任としなければならないということになっている。 手厚い配慮なのだが、その場合日本人クラスができて、学校へ行ってもほとんど日本語が通じるため、子どもが英語を覚えない、という不具合が起き、かえって親は不満を抱く。 ひとえに、子どもをバイリンガルに育てたいという親の熱心だが、今考えれば学校側にとっては迷惑な話だ。 駐在員は、2年から5年で帰国してしまう。教師にしてみれば、日本人の子どもはやっと英語を使いこなせるようになった矢先に帰国してしまうのだから、他国の移民の子供たちに比べて教え甲斐がない、という気持ちになるのは自然だろう。 そんな批判を少しでも和らげたいと、私たち日本人の母親は、PTA活動に積極的に参加した。 働きたくても働けないのだから、時間はたっぷりある。国内のPTAに比べれば、父親も含め参加率は格段に良かった。 私たちが属したのはBilingual Advisory Committee(訳すと二カ国語諮問委員会)という会合で、要するに英語を母国語としないESL(English as a Second Language)児童の親の集まりである。 英語を解さない親と学校とのコミュニケーションの橋渡しをしたり、自分たちの文化を紹介したり、学校の行事に協力するのが主な目的だった。 会員は、香港、台湾、韓国、日本、エジプトと、国籍も多岐に渡った。 “Culture Day”という文化紹介のイベントを催したり、遠足の費用を集めるため手製のプリントTシャツをバザーに出品したり、朝礼で七夕などの行事の紹介をしたり、各国ご自慢のレシピを集めてクッキングブックを作ったりしたことを覚えている。 アメリカにいるときは不思議と、アジア人同士というだけで親しみが湧いた。 共通語は拙い英語だけだったのに、私たちはお互いにとても良い関係を築いた。 エジプトのあるお母さんは、日本人が大好きだと言って、家に遊びに来てくれた。びっくりしたのは、決してトイレットペーパーを使わないこと。トイレに行くときは水を使うので紙コップをくれと言われた。 アルメニアのお母さんの作った料理は、最高においしかった。 台湾のお母さんの家に行くと迎えてくれたおばあさんは、流暢な日本語を操った。戦時中、日本軍に強制されたはずの日本語なのにとても懐かしそうに話してくれた。 韓国のとても綺麗なお母さんも、日本語を以前習っていたと言っていた。 「どうして日本語を勉強したの?私たちはあなたの国に昔ひどいことをしたのに。」と私が言うと、困ったように笑っていた。 今思い出すと、楽しい、とても素晴らしい体験だった。 私はアメリカに行ったのに、逆にアジアを体感して帰ってきた。 |