オウム真理教の一連の事件以来、「宗教」ということばに拒否反応を示す人が多い。 ビン・ラディンとイスラム原理主義の影響もあるだろう。 宗教さえなければ、世界は平和になると思っている人もいる。宗教こそが戦争の原因だと。 かくも血生臭く彩られている人類の歴史を見るとそう見えてしまうのも事実だ。 しかし本当にそうだろうか。 戦争の原因は人間の欲望。自分の家族、同朋、ひいては自分の国は愛するが、それは自己愛の延長。 自分たちと異なる容貌の人、異なる食物を摂る人、異なる習慣を守っている人は自分を侵す者として排除する。 宗教はその理由づけのために利用された。生命を超える永遠という概念は何よりも人間を鼓舞し、無欲にするから。 そして、あるときはひたむきなまでに一途にするから。 「あなたの神はわたしの神と異なる。だから、わたしたちはお互いを受け入れられない。」 ではなく、 「わたしは、わたしの神から受けた愛で、あなたを力の限り愛する。」と世界中の人が言えたらどんなに良いだろう。 「アメイジング・グレイス」という歌が、阪神淡路大震災の7周年の追悼の日、淡路島で合唱された。 これは十数年前、宝石のコマーシャルとしてテレビに登場し、クリスチャンの度肝を抜かせたが、教会で歌われるれっきとした賛美歌である。 今はゴスペルの定番として聴くことも多くなった。 この歌を作詞したジョン・ニュートンという人は、18世紀のイギリスの奴隷商人だった。 アフリカの人々を無理矢理捕まえてはアメリカなどに売り、放蕩の限りを尽くしていた。 だが嵐の船の中で自分の命も持ち物もすべてを失いそうになったとき、彼はキリストの救いを知り、それからの人生を180度転換させて、人のために尽くすようになる。 ”Amazing grace, how sweet the sound, That saved a wretch like me! I once was lost but now am found, Was blind but now I see. “ (なんという驚くべき恵み。わたしのような惨めな人間が救われるとは。 なきに等しい者が見出され、真理の見えぬ者が見えるようにされた。) 震災追悼の日、テレビのニュースではこの賛美歌が流れ、ついで仏教の法要が映し出され、長田のカトリック教会のミサの様子が中継された。 人間が個々の枠を捨て、悲しみを共有し、永遠への想いにひとつとなった一日だった。 |