海外生活の第一の関門は、荷ほどきのときである。タイ赴任のときもそうだった。 山のようなダンボールを目の前にうんざりと外を覗けば、知らない街、理解できない言葉、嗅いだことのない匂い、未知の人々。 しかたなく自分を鼓舞してカッターで荷物を開け始めれば、今まで住んでいた家で使った食器。友人たちのお別れのプレゼント。 思わず涙がこぼれる。どうして自分はこんなところに来てしまったのか。主人には仕事が、子どもには学校がある。でも私には何もない。今まで築いてきたすべての人間関係を断ち切られて。 などと自己憐憫にひたっていた私を、主人と同じ会社の駐在員の奥さんが訪ねてきてくれた。 買い物に行きましょう。いいところに案内してあげる。 と連れて行かれたのが、スクンビット通りソイ33の日本人向けスーパーマーケットの近くにある日本の貸本屋。いや、本と言っても90%はマンガ。 天井までぎっしりと棚につまっている。しかも1階は少年マンガ。2階は少女マンガ。 その日から私のホームシックは治った。制覇すべき宝の山を見つけたのだ。 私の周囲には長いあいだ貸しマンガ屋という存在がなかった。昭和30年代後半に神戸の長田で行ったのが最後だ。無名の作者の本ばかりだったと思うが、もしかすると後の大家のものもあったかもしれない。「何でも鑑定団」でその頃の貸し本にすごい高値がついていた。 当時の借り賃は確か5円。 バンコクの貸しマンガは四泊五日で1冊10バーツ(約30円)。10冊借りても300円。 品揃えは本当にすごかった。最新刊とはいかないが、店長が日本までわざわざ仕入れに行くのでかなり揃っている。メジャーな出版社のものから同人誌系作家のものまであったと記憶する。 ただ貸本の宿命として、ぽんと1巻抜けていたりする。それもクライマックスに限って… (「ふしぎ遊戯」の第一部完結編が抜けていたのは痛かった)。 続きを誰かが先に借りているという衝撃もある。返しに来る頃を見計らってふたたび行き、ソッコー奪取する。ほんとに何してるんでしょう。 でもこの店がなかったら、「コータローまかりとおる」の全巻読破なんて絶対できなかった。 子どもがふたりとも男の子なので、最初の2年は1階に入り浸った。 あだち充の「タッチ」や「虹色とうがらし」。藤田和日郎の「うしおととら」もはまりまくった。 2年後とうとう借りたいものがなくなって、2階の少女マンガに進むことにした。真の意味で私が狂乱したのはそれからだった。 なつかしい! 好きだった「ガラスの仮面」も「ベルばら」も「スケバン刑事」も何十年ぶりかの再会。 大人になってから少年マンガばかり読んでいた私にとって、少女マンガの進化は新鮮な驚きだった。 とにかく絵がきれいになっている。どうしても昔のものは絵柄が古臭いのは否めない。スクリーントーンやCGの効果も大きいのだろう(今はアシスタント募集で「効果線のうまい人」という条件はないのだろうな)。「花ゆめ」系(樹なつみや由貴香織里)、「Wings」系(橘皆無や碧也ぴんく)の絵は特に魅了された。 ストーリー的に好きだったのは、「BASARA」、「こどものおもちゃ」、「いたずらなKISS」。 「いたキス」は何回涙したことだろう。 4年たらずの駐在期間で、たぶん読破2000冊はいったはずだ。 海外生活に適応するための心得。 それは多分、社交的な話術でも、おもてなしの腕でもなく、ひとつの趣味に熱中できること。 要するに、オタクは強いのだ。 こうして、私のタイ駐在主婦生活は、マンガに明け暮れて無事終わった。 ただひとつ失敗だったことがある。 息子たちが日本へ帰ってきてからもマンガに囲まれていないと生活できなくなってしまったのだ。 今は我が家が天井まで、さながら貸しマンガ屋と化している…(貸しませんけどね)。 |