昼休みに、若林さんから来たメールを開けてみて驚いた。彩音を残して一足先に帰国したという。 「どういうことなんですか」 なじるような調子になっている自分が止められない。 『版画の技法を学ぶために、もう少し滞在を延ばした…
不響輪音
「シルクスクリーンは、セリグラフとも呼ばれ、アメリカが発祥の地なんだ。アンディ・ウォーホールは知ってるだろう」 「知らない」 高校で芸術コースとか通ったけど、行ってもほとんど寝てたもんな。親父の家にも、現代美術の本は置…
読書の残骸
どうしても眠れないので、本を読むことにした。 はらり。 ページを繰る音が好き。一枚めくるたびに、違う世界へ行けるような気がする。過去あるいは未来へ。それとも、どこにもないステキな場所へ。 けれど、今はその恩恵も受…
飛行船群の襲来
アメリカへ来て、もう二回も飛行船が空を飛んでいるのを見た。 最初はたまげた。俺は子どものころ引きこもりだったから、生まれてから今まで一度もそんなものを見たことがなかったのだ。 真っ青な空に目がつぶれるくらい鮮やかな…
胡桃割り人形の錯乱
山の手線の電車に乗り込んですぐに、彼を見つけた。神経質そうな横顔は、私のほうを向いたとたんに、こわばった。 智哉は、私の元婚約者。直前になって結婚をとりやめた相手だ。 「……お久しぶり」 紺のスーツの胸には、かつて…
間違い街角
なぜか毎朝五時になると目を覚ましてしまう。いわゆる時差ボケというものらしい。 起き上がり、ヒゲも剃らずに、上着だけ引っ掛けて、ホテルを出た。 セントパトリック寺院らしき尖塔を仰ぎ、ロックフェラーセンターらしき金色の…
来年咲く花
ひらひらと、花びらが舞い落ちてきた。 寒の戻りで長い間がんばっていた公園の桜も、そろそろ散り始めている。 もう、何年目になるだろう。彩音と初めて出会ったのも、桜の季節だった。 「とうとう今年は、いっしょに花見ができ…
偽物の世界
世界中から集まった入選者たちは、いろんな形、いろんな色、いろんなサイズでできていた。 暇さえあれば、機知とユーモアに富んだ、いかにも文化人的な会話を楽しんでいる。 自己主張と相手への好奇心がよじり合わされ、巨大な渦…
海底の寝心地
彩音がニューヨークに行ってしまってから、一週間が経った。受賞式が終わってからも、スポンサー主催のパーティや雑誌の取材など、いろいろ用事があるものらしい。 スズキ美術の若林さんがついててくれるから大丈夫と思うけれど、突…
踏切にて
あるとウザいけれど、ないと寂しいものが、人生にはいろいろある。 たとえば、踏切。マンハッタンには踏切が見当たらない。地下鉄や高架鉄道しか存在しないから、当然と言えば当然だ。 琴音さんと近所のスーパーに買い物に行くと…