部屋に入ったとたん、なつかしい匂いに包まれた。
甘やかな、琴音さんの匂い。俺はようやく、自分の居場所に帰ってきたんだ。
「疲れたー。もう飛行機なんか、二度と乗らねえ」
「はいはい。とりあえず、ご飯にしようか。受賞祝いのご馳走よ」
台所に立とうとする彼女を、俺は引き戻して、背中から抱きしめた。
「ただいま」
記憶にあるより細くて小さな体に愕然とする。琴音さんは、この一カ月でこれだけ痩せたんだ。
電話の向こうの泣きそうな声を思い出す。俺はちゃんとその声を聞いたはずなのに、頭の隅に追いやった。絵に夢中になって、大事なことを忘れていた。
一生離れないって約束したのに、俺は約束をやぶった。琴音さんがいなければ生きていけないのは、俺のほうなのに。
「ごめん」
「彩音。泣いてるの?」
「ひとりぼっちにして、ごめん」
彼女の良い香りのする髪にキスした。存在を確かめるように、うなじを幾度もたどった。
「いいの、ちゃんと帰ってきてくれたから。それに」
琴音さんは背中をのけぞらせ、両手を伸ばして、俺の髪をくしゃくしゃに乱した。
「ふたりでいるときは、全然回りを見ようとしていなかったのだと思う。面倒なことは全部うやむやにして放っておいて、そのツケが、いっぺんに押し寄せてきた感じの一ヶ月だった。でも、ひとりで問題に立ち向かうために、私には必要な時間だったの」
彼女は魚みたいに体をするりとひるがえし、俺をまっすぐに見上げて毅然と、女王のようにほほえんだ。
「彩音。おかえりなさい」
俺たちはそのまま体を重ね、琴音さんの用意したご馳走を腹いっぱい食べて、それでも満たされない飢えを満たすために、もう一度体を重ねた。
琴音さんの寝物語は、何度も俺を崖の底へと突き落とした。
たとえば、智哉に電車の中で偶然会って、昔話がはずんだこととか。ご両親と和解して、久しぶりに実家に帰った席で、結婚は当分しないと宣言したこととか。
俺はまだまだ、智哉の幻影に勝てない。結婚にふさわしい男じゃない。暗黙のうちに、そう宣言されているようだった。
琴音さんの心と体を完璧に自分のものにするまで、俺はあとどれだけ崖をよじのぼり続けることになるんだろう。
夜が明けるころ、旅の荷物を開けた。
「ニューヨークって、何もないところなんだ。踏切もないし、飛行船がビルのてっぺんに引っかかって、ときどき落ちてくるし」
俺は持ち帰った版画を取り出し、体を椅子がわりにして、彼女を座らせた。
「でも、この朝焼けを見たとき、これだけは絶対に琴音さんに見せたいと思った」
「きれい」
と琴音さんは、うっとりとため息をつきながら丹念に見てくれる。「自分で見るよりも、彩音の目を通して見たほうが、きっと何倍もすてきよ」
ああ。俺のこの絵は、やっと今ここで完成した。
「いつか、本物のセントラルパークを、いっしょに見に行きたいな」
「さあ、いつのことかしら」
「いつだっていい。俺たちは一生いっしょなんだから」
琴音さんは、俺の腕の中にゆったりと身を預けた。「うん、一生いっしょだね」
俺は彼女の手の甲に口づけてから、版画にサインするように、指文字を書いた。
『Zion/K 1/1』
「CLOSE TO YOU 第4章」
お題使用。「瓢箪堂のお題倉庫」http://maruta.be/keren/3164