部屋に入ったとたん、なつかしい匂いに包まれた。 甘やかな、琴音さんの匂い。俺はようやく、自分の居場所に帰ってきたんだ。 「疲れたー。もう飛行機なんか、二度と乗らねえ」 「はいはい。とりあえず、ご飯にしようか。受賞祝い…
カテゴリー: 掌編
増殖する愛
『琴音さん、今ニューヨークの空港に着いたところ。愛してる』 『今、成田に着いた。すぐ電車に乗るから、あと一時間。愛してる』 『機内食、ゲロまずかった。琴音さんの作ったご飯が死ぬほど食べたい。愛してる』 「愛してるの大安売…
最後の楽団
工房へ入ると、アンジーとドルーが製図台にもたれ、抱き合ってキスしていた。 ああ、そうなんだと思った。そう言えば、最初にドルーが言ってたっけ。 『サイオン。僕たちの女神、アンジーを紹介するよ』 彼女は、ここにいるみん…
音符の行進
彩音にメールを送ったあと、すぐに実家の番号をダイアルした。 留守録に切り替わる。両親は私からだとわかると、絶対に受話器を取ってくれない。 「お父さん。お母さん。琴音です。ご無沙汰しています」 くじけそうになるのを堪…
可憐な罠
弁解すれば、俺にとってアンジーとのキスは、動物の子どもが互いの毛を舐めるような、ごく自然な行為だった。 二週間、ひとつの完全な世界を創り上げるために、ともに苦闘した戦友同士。感謝と尊敬と。高揚と解放感と。 ほんの少…
暗夜回路
泣き明かした夜が終わろうとするころ、私は立ち上がり、明かりをつけて、アトリエの床に散らばった花を拾い集めた。花は無残に折れ、しおれていた。 「ごめんなさい、あなたたちに八つ当たりして」 自分だけが不幸だと思いこむ人は…
オレンジ色の人
アンジーはまず、俺の原画を下敷きにし、同じ色の部分だけトレースしていった。色調ごとに何枚もの版に分けるためだ。 できた版ごとに色を調合する。俺がアクリル彩色で塗った朝焼けを忠実に再現するために、ありとあらゆるオレンジ…
空中花
前触れなく、着信音が鳴った。 「彩音。今どこなの」 「ニューヨーク」 眠そうで素っ気ない返事に対抗するように、私は低い一本調子の声で問いかける。 「いつ帰ってくるの」 「当分は、ムリかな」 眼の奥がけいれんして、世…
沈殿都市
「これを、刷ってほしい」 勝負とばかりに、俺は描きあげたばかりの水彩画を、アンジーの前に置いた。 三日間ほとんどホテルに閉じこもって、ひたすら描いていた。この前、眠れずに街を歩き回ったときに目に焼きついた夜明けのセン…
ゆらりゆらら
昼休みに、若林さんから来たメールを開けてみて驚いた。彩音を残して一足先に帰国したという。 「どういうことなんですか」 なじるような調子になっている自分が止められない。 『版画の技法を学ぶために、もう少し滞在を延ばした…